若き芸術家の情熱に触れて
「東京は、からっ風が吹くやろ。乾燥は作品にも良くないし」。今年3月大阪の仕事場兼住居を訪れたのは、雨の降る土曜の昼下がりだった。「100年は作品をもたせなあかん」と彼女はいう。そこには、芸術世界に生きる者としての誇りと決意が込められている。その力強さは、数々の作品を生み出し、独自の世界観で観客を魅了してきた道のりに裏付けられている。
富山県に生まれた。絵画の基礎修行のため、中学、高校には美術学校のある京都と実家の半々の生活を送ったという。この時点で、芸術に対する並々ならぬ使命感を感じさせる。やがてフィールドを油彩、ファイバーアートと広げ、テキスタイル・デザイナーとしてアパレルメーカーに就職。服地の開発や、染織も行い、伝統的な緞帳なども手掛けた。どの分野でも才能を発揮した。だが、自分を完全に表現しきれなかったという。
芸術家「玉本奈々」として一個の存在を極める−。それまでの道のりは、その手法を探す過程だったのだろう。肉体的・精神的限界、賞賛と羨望を超えて、現在の表現方法にたどり着いたのは24歳の時だった。布や糸を加工して質感を変えたものをキャンバスに貼り付け、さらに彩色を施す。平面のようで、立体感を持つこの手法は、全く独自のもので、見てすぐに、玉本の作品と分かる。まさに、「オンリーワン」の輝きを放っている。もちろん、磨き抜かれた基礎、布という素材への精通、また、これも彼女の天性である“人の心に寄り添う技術”が、作品に輝きを添えていることはいうまでもない。「100年残る作品」を生み出すための試行錯誤はとどまるところを知らない。
作風も十分に個性的だ。柔らかな輪郭と、緩やかな色調は、観る者をそっと包み込むようであり、突如としてキャンバスに現れる黒や奇抜な物体は、一気に突き放してしまう。彼女の作品は、安易な鑑賞を許さない。しかし、心をつかみ、目をそらすことができない。それは、単に美術品の均整のとれた心地よさだけでなく、不完全や、裏切りといった、人間の負の側面を許容し、割り切れない人間の本質にと正面から向き合っているからだ。
「見透かされる」というファンも多いという。彼女の作品と向き合うのなら、自分の心も見据えなければならない。彼女自身、「人間の精神世界に興味がある」という。彼女の視点は、可視的なばしょにはないのかもしれない。
恐らくは、今回の展示の軸となる作品、「マント」を例にとろう。「マントは覆い隠すものだと思っていた。でも吊るしてある洗濯物にさえ、着る人を感じてしまう」という彼女の感性が形となった作品だ。
黒く滑らかな女性型トルソーに、セクシーな赤いランジェリー。しかし、肩に掛かるマントの表層は、至る所が青や黄に隆起し、内なるものが溢れ出しそうだ。なぜ女性は黒いのだろう。私の疑問に、明快な答えが返ってきた。「女性は本能で動くけれど、一般的には現実的と言われている。夢見がちなのに、理性がないといやらしい。心の底にどろどろしたものを持っているのに、現状をきちんと見据えている。黒は女性の象徴的な色ともいえる」。
どんなに美しく表面を整えた女性も、内奥には割り切れぬものを抱えている。それを普段は押し殺しているからこそ、服地の隙間から、秘めた思いがもれ出ているのである。もちろん、その精神世界は誰にでも見えるものではない。彼女の心眼が、それを捕らえているのである。エロチックなトルソーは、手足が取り払われ、観念と視線は自然に黒々とした腹の中に集中する。この仕掛けも心憎い。背後もカラフルで、360度楽しめる作品だ。
ほかにも「白い」肉体と「黒い」魂が半々に合わさった「表裏一体」、祖母の臨終に際し細胞の一つ一つが最後の整列をした「永眠」、何も映していないようで真実を見据える「心眼」など、代表作がある。いずれも、精神世界の表現に取り組んだ作品だ。普遍性、芸術性の高さはフランスでも評価され、国際的活動も期待されている。
常に新しい試みを模索し続けてきた彼女の作品群が、 今回、世界遺産の村である富山県南砺市の五箇山、相倉で展示されるという。長い年月、人間を包み込んできた伝統文化と、これから100年、人々の心をつかもうというモダンアート作家との対峙である。どちらかに軍配が上がるのか。それとも、両者は溶け合って、新たなハーモニーを生み出すのか。観に来られる方には、ぜひ、その真剣勝負の空気を感じ取ってほしい。なぜなら、彼女の願いは、ファンに驚きと感動を与え、楽しんでもらうことだからだ。「アート」に対する既成概念が打ち砕かれることは、作者にも、鑑賞者にもこの上なく楽しいことである。
毎日新聞大阪本社
編集制作センター 記者
山崎 明子
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