松井 不二夫                                         評論家





            

見つめるという呪術的作業





生命が沸き立つ感覚を知る喜びがある。そうした原初イメージを定着させるために、玉本は、画面に塗り込める鮮やかな絵具づかいと、その上に盛りつけるマチエールの対比という方法論を使っている。命の形を見えるものとするためには、この過剰な技法は必然と思わせる。



まず、「永眠」と題された作品は、溶融したアマルガムのような銀灰色の地の上に、赤く縁取られた紡錘状の存在が浮かんでいる。細胞や筋肉を想像させる輪郭線でありながら、その質感は生々しさよりも柔らかさと穏やかさをそのマチエールが伝えるもし死者の霊魂があの世へ旅立つ様を目にするなら、このように浮き立つ姿であるのかと思わせる。



次の「マスクの表皮」では、絵具で塗り込められて地となる無表情な顔の周りに喜怒哀楽を込めた無数の顔で埋め尽くされている。マスクと表側の人格だろう。しかし作家は人間存在を直視したときに現れる。多層な感情を顕わにし暴き出すそんな根差しの力がこの作品の力となっている。



さて「見られている気がするけれど」において、その根差しそのものがテーマとなっている。向き合ったふたりが互いに見ているのはむき出しの顔=面差しである。見開かれた目と閉じられた目の表現の対比は、見つめ合うこと、すなわち見る/見られるとい向き合い関係の不可能性を露呈しているかのようだ。ここに描かれたユーモラスなように見える表情の表現は、他者と見つめ合うときに生じる歪んだ鏡像という関係の直截的な描写であろう。



次の2点「ムジナ」と「情」はどちらも緑と赤などの色彩の対比と空間の処理がリズムを作り出している作品である仏語タイトルから、影響を与えて共振していく関係性にテーマを見てよいのかもしれない。「ムジナ」の群れ(であろう)が中央に作り出す空虚や、「情」で儚く途切れそうな処理からそれを感じ取ってみたい。



「千里眼」と「表裏一体」を見てみよう。これらのタイトルから作者は根差しの力を超えて、見ることの意思を表明している。 ここで見るとは目の働きではないことが明らかにされている。「千里眼」において細胞のようなもの(顔にも見える)が浮かびながら赤と緑が画面に沁み出している中央はまたしても複眼とでも呼ぶべきセル(細胞)の小部屋が並ぶ。眼というのは、全体は見るという複数の行為の集積であるのだろうか。この作品において見る/見られるの哲学が表明されている。「表裏一体」では全体においての対象性細部における非対称性を駆使している。ここでも「見られている気がするけれど」と同様に、見る目と閉じる目の対比があるようにも感じられる。画面下方で滴るような赤い小胞は口腔でなく、もうひとつの目ではないだろうか。



最後に「密閉」ではあふれ出る人間の情念のようなものの視覚化に成功している。人間世界そのものが見えるならこのようなものだろうと説得させられる。素材の質感が柔らかな印象を与えていることが救いだろうか。



呪術的な反復は力をもたらす。シンプルに部分が繰り返されることで全体があふれ出すのだ。形を繰り返す玉本作品を繰り返し見つめることで、私たちは人の形の深奥にある姿を見出すことになる。





評論家
松井不二夫