三谷 渉                         和歌山県 田辺市立美術館 学芸員




ナナのためのナナ(子守唄)




玉本さんの作品は 「描かれた」 ものというよりも 「作られた」 ものといえよう。(だから個展会場で«密閉»のような立体的な作品に接したときも、とても自然な制作の流れのように思えただがここでは壁に掛けられる玉本さんの主たる作品に限って記したいと思う。)玉本さんの作品は板の上に様々な布や糸が張り込められ、幾重にも色彩が重ねられて、具体的とも抽象的ともいえる形が浮かび上がっている。この形象にまといつく素材の質感と重層的な色彩を目で追ったとき何か得体の知れない感覚がこみあげてくるのを感じた。多分それは得体はしれないが確かに在る、有機的な運動をもった「生」を感じていたのではないかと思う。玉本さんの作品の奥にはそうした「生」の深淵とどこかで結びついている部分があるように思う。多分にそれは玉本さんの個人的な体験が根ざしているのだろう。



しかし、作品の表層にあるものは、けして生々しいものではない。間違っても自分の内面を乱暴に画面に投げつけたようなものなどではない。まるでおとぎ話か寓話の世界のような
架空の形、架空の色の園である。この、作品の深層から表層への転調こそ玉本さんの作品の魅力ではないかと思っている。そしてそこに介在する「作る」という行為にどうしても思いを馳せずにはいられない。



玉本さんの作品の制作にはたいへんな時間と労力が要されることは容易に察せられる
しかし、その行為手作業の過程は、たとえ困難なものであったとしても、自身の内面を客観化し、慈しむような例えば自分自身の魂への子守唄をうたうかのような行為としてあったのではないかと思えてくるのだ。そうでなければ破綻をきたすことなく、あの手の込んだ、時には重い主題を扱う作品群を完成することができただろうか。もし完成できたとしても、その表層は自身の内面を拡大して形にした、とげとげしいものにすぎなかっただろうと思う。



玉本さんの作品は女性に人気があるのだと聞く。奈々(玉本)のための奈々(子守唄)がそれぞれのナナのためのナナ(子守唄)として聴こえ、響きあっているのではないだろうかと、想像をたくましくしている。



玉本さんの郷里
富山の長い年月を経た屋敷にて作品が公開されると聞いたとき 何と良いゆりかごがあたえられたことかと思った玉本さんの作品は人の「生」の営みの記憶がある場所にこそふさわしい。私には美しく響きあう唄が聴こえてくる。




和歌山県 田辺市立美術館 学芸員
三谷 渉