交差するまなざし−玉本奈々の作品に触れて
《内と外》(2011)という作品がある。外観は黒く塗り込められ、内側の様相を何ひとつ暗示しない。扉を開けようと、それに手をかけるときの気持ちはいかなるものだろう。隠されたもの、謎めいた何かに、われわれはどうしようもなく惹かれる。だが、もしそのままにやり過ごし、扉を開くことなく背を向けたなら、その人は秘められた真相を知ることはない。
この作品は、モニュメンタルな風格すら具えて、これまで作者が一貫して取り組んできたテーマを象徴的に示している。人は誰でも、外見を取り繕うことはできる。しかし、その内面はそう単純ではない。そのことを暴きだそうと挑むのではなく、あくまでも生のありのままの姿を冷徹にみつめながら、作者は描写を続けていく。
幾重ものプロセスを経、人間の内面にある複雑さの再現を作者は試みる。まず、樹脂や、布に羊毛を詰めて縫い合わせた丸い突起物が、板の上に貼り詰められていく。どれひとつ同じものはない。これらは表面をなめらかになぞろうとする視線を妨げて、ときに鑑賞者の感情を乱す。凹凸のある下地が出来上がると、情熱を思わせるつよい色彩が塗られ、しかしその輝きを全否定するように、ひとたびは塗りつぶされてしまう。
制作の過程をひとつひとつたどっていくと、この作品のなかには驚くほどの時間が籠められていることに気づく。繰り返し重ねられる行為は、はたして無駄なのだろうか。私はそうは思わない。執拗な施術を重ねながら、声無き声との対話を繰り返し、寄り添うように生の真実を紡ぎだそうとする、作者の真摯な姿勢がそこに感じられるからだ。優しさ、と呼ぶのがふさわしいかはわからないが、複雑に入り乱れ、醜態すら曝してしまう生を慈しむようなまなざしが印象に残る。赤から黄、青、そして紫へとかわる虹のような色彩に包まれて、最終的に、作品にはある種の救いの表情が浮かぶ。
文字どおり生来的なアーティストがいるとすれば、玉本奈々という人はそう呼ぶにふさわしい。そして、その歩みを年譜でたどることは、あまり意味がないのかもしれない。生そのもののように、その人の作品は流転するものだから。これらを同時代に目撃できることは、幸いだ。新しい場所で、新しい局面をむかえ、その作品はどのような様相を帯びるのだろう。そのことが、鑑賞者を惹きつけてやまない。
高岡市美術館 主任学芸員
宝田陽子
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